3. おいでませ、地獄一丁目
日本に到着三日目の朝。
宿泊しているホテルのリムジンバスバスから降りたとたん俺は眩暈を覚えた。
眼下に広がる谷は薄青い煙に包まれている。周囲の岩肌はほとんど植物がない。
自分の立っている場所から背後には美しいブナの森が広がっているのに。
ここにあるのはとても純粋な「力」だ。
強い、古い大地の力が、ここではまさに湧き出しているんだよ、とリーマスは言った。確かにここの地にこもったエネルギーはすごい量だ。
そして…ああ、確かに湧き出しているとも、地獄の臭気が。硫黄…いや、これは硫化水素だ。
俺は確信した。
地獄が地面の下にあると考えた連中は、地面から湧き出すこの匂い、この匂いから地獄をイメージしたに違いない。
注意書がまたすごい。
『ここの湯は強酸性です。金属は腐食いたしますので、外してお入りください』
そんなものに入って平気なのか?というより何が一番信じられないかって、この匂いのする湯に入って健康になると言う話だ。病気や怪我を治すため、日本中から人が来る、と。
度胸試しで成人式とか、罪人を強制労働させるとかの話ではない、自主的にこの湯に入って身体の疲れをとるなんてここの住人はどういう神経の持ち主だ?
唖然としている俺を尻目にリーマスはさっさとロッカールームへ降りていく。
俺はといえば…
チャレンジ温泉ツアー 一日目。
硫化水素の悪臭により谷底に近づけず駐車場で一人留守番。
あきらめて風上の散策コースを歩く。
二日目。
半日散策コースを歩き、鼻が慣れた(バカになった)ところで湯場に降りた。
が、風向きが変わったとたん一気に強烈になった匂いに敗走。
そしてこの間、俺はリーマスに指一本触れてない。
しゃれや酔狂じゃあない。
リーマスの身体から漂う匂いっ!地獄の泉の香りそのもの、俺が温泉に入るのを拒むこの匂いが、リーマスの髪や肌から漂ってまるで結界のように俺が近づくのを阻んでいるのだ!!
ふざけんなっ!
俺は休暇に来たんだ!
緊急の呼出しや残業に追われることなく、恋人と一緒に甘い時間を(せめて今だけは存分に)過ごそうとっっ!!
それが…何してるんだ自分っ!
たかが匂いにくじけてどーするんだ自分っっっ!!!
部屋の端ではリーマスが安らかな寝息を立てている。
そして俺はシーツに包まって(というか被って)自分を叱咤する。
…明日こそ、温泉に入ってやる…
そして運命の三日目。
あっついー!!!
思わず一本足で身を縮めた俺を見て、リーマスは少し驚いた顔をした。
周りの湯治客達は、同じように驚いてから笑い出した。
「…あっちの小さい川が流れているところは温度が低いはずだよ。低い温度から身体を馴らさないと大変かも…」
俺の頭はがっくり項垂れた。
リーマスの入っている場所からかなり離れた一角(最も温度の低いと思われるポイントだった)で半ばふくれっ面で湯に浸かる。
いやこれでも相当に熱い。
というか、日本の湯は総じて熱いと思う。
いや、まあ、朝食のスープやら茶やら皆熱いから、熱いのが好きな文化なのかもしれない。
そんな事を考えながらリーマスのほうを眺める。
意外と言おうか、ここではリーマスが平気で人の間に入っていく。
日本の温泉は国と違い、水着ではないのに。
いつもなら海でさえ彼は肌を出さない。
身体のあちこちに残る目立つ傷をさらさないためだ。
ここでは私の傷も目立たないんだ、と彼は言ったが、見まわせばなるほどリーマスにも負けない傷の人が見える。
自分の隣でくつろぐ老人の小柄な身体には肩から腕にかけて長い傷跡が見えた。
ドラゴンにでも喧嘩を売った、と言う雰囲気だ。聞いてみると裏庭でクマに掻かれたのだ、という。
そのあと、あそこのじいさん(とリーマスに近いほうへ指差した)は目玉を持ってかれたと言うからましなほうだね、と言ってからからと笑った。
何処まで本当かは判別できない。
入浴する事8分。
自分の頭が丸きり思考できなくなっている事に気が付き、慌てた。
のぼせている。
信じられない。
スルメのような年寄りや小さな子供たちが肩まで入ってくつろぐ中で、何故に自分一人がのぼせなくてはならないのか?
いや、しかし、葛藤しているヒマは無い。とっとと身体を冷やさなければ。
こんな公共の場で、全裸で伸びるなどという無様な真似はプライドが許さない。
湯から上がったものの、心臓がものすごい速さで音を立て、頭の中で脈が鳴り響く。
急ぐなどという事は不可能だった。どうにか途中で倒れる事だけは回避したが、ロッカールームで薄いガウンを羽織ったところで根性はくじけた。
棚に縋るように手をついたが、力が入らない。
ずるずるとすべり、床に膝を付いた。周りに寄ってきた影が何事かを呟いている。
その意味を聞き取ることなく、意識は途切れた。
頬に風が当たるのを感じて眼が開いた。
いや、どうにか持ち上げた、という感覚だった。
視界は真っ白だ。
ああ、タオルだ、と思った。
だるい腕を上げ、ひんやりとしたタオルをずらし、視線を動かす。
自分の横に座るリーマスが、手に持った団扇を動かしていた。
天井は華奢な木造。自分は薄いマットの上に横たわっている。
どうやらベッドではなく日本の伝統建築、畳の上…ということはホテルでは無い。
「…気が付いたかい?君はとてものぼせやすいみたいだねぇ。」
苦笑するような雰囲気が伝わってきた。
…ときどき、リーマスの身体感覚はどうなっているんだと思うことがあったが、今度ばかりはいわせてもらう。
リーマス!お前の感覚はどっか変だ!!
叫ぼうにも逆上せ上がった身体は自分の制御を離れて戻らない。
「この温泉の温度も成分も健康にとても良いんだけどね。
始めは5分づつ入るなりして身体を慣らしていくんだ。でもどうしてものぼせやすい人のために地熱温泉とかもあるよ?」
「…それは…?」
「あったかい地面にシーツに包まって寝ているんだ。」
……明日はそっちに行こうか…
つぶやき
向こうの国の人たちにとって、温泉はちょっとビックリなシステムの様です。
これで混浴だとか言われたらシリウスさんとかさらに混乱しそうです。いや、向こうの温泉も混浴なんだけどね、水着着て。